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2014年3月 1日 (土)

2014年3月1日 卒業礼拝 星野校長あいさつ

高校3年生の皆さん、広島女学院高等学校のご卒業おめでとうございます。又、保護者の皆様がた、今日こうしてお嬢様方が女学院での6年の学びを終えて新しく旅立たれる日を迎えられましたことを心からお喜び申し上げます。

6年前の4月7日の火曜日の入学礼拝の日、皆さんはこの同じ席に座って私が皆さんの名前を一人一人呼びあげました。一体、担任の先生はどんな先生だろう、友達は出来るだろうかと、色々な思いを交錯させながら座っていたことでしょう。1組は学年主任の中村順子先生、2組は伊藤先生、3組は濵岡先生、4組川上先生、5組は中山先生でしたね。当時のアルバムを見ると、あどけない顔で桜の木の下でクラス写真を撮っている姿が残っています。中2の時には九重山登山がインフルエンザの蔓延で中止になり、USJへの遠足に振り替えるという事もありました。こうして皆さんを前にするとこの6年間がどんなに大きな月日であったかを実感し、心に迫るものがあります。

さて今日は皆さんに聖書の中からお話をしたいと思います。

主イェスを十字架につけるためユダヤ人たちは彼を犯罪人として訴え、裁判に立ち会ったローマ総督ピラトは罪を認められず無罪としましたが、訴えた者たちの「十字架による死を!」の声が勝ちました。他の二人の罪人と共に、有罪を宣告された者は鞭打たれ、自分の架けられる十字架を刑場まで運ばなければなりません。しかしイェスは途中で力尽き、運ぶことが出来なくなってしまいました。その日、多くの人々が見物に来ていた中にキレネ(北アフリカ・リビア)出身のシモンという一人の男がいました。何かのついでに見物に来たのでしょうが、兵士はたまたまそこにいたシモンに強制的に十字架を運ばせました。第三者として見物するつもりだったのに突然当事者になったのです。ローマ兵に命じられては逆らうことも出来ず、無理やり十字架を担がされ、悪い事をした訳でもないのに罪人達の一人のように死刑の道具を背負って歩くことになりました。シモンの衝撃はどんなだったでしょう。ゴルゴタの丘へ着くまでの道のり、イェスに対して嘲りや醜いことばが投げかけられ、一方ではイェスを慕う人たちの嘆きの声が聞こえる中、シモンはイェスの一挙手一投足を見、苦しい息遣いをごく間近で感じながら、鞭で激しく傷ついたその後姿をじっと見続けながら歩いたのでしょう。一体なぜこの人は十字架につかなければならなかったのか、と問いつつ。この短い間の出来事を通して、シモンにとってイェスはただの見知らぬ犯罪人から無視できない人物となり、後には信仰において彼に従う者と変わったと考えられます。聖書には明確に書かれているわけではありません。しかしマルコの福音書の記述の中の「アレクサンドロとリュポスの父シモン」と言う一行がそれを暗示するのです。マルコがわざわざこの名前を書いたのは、2人が当時の教会では良く知られていた信徒であったと思われるからです。(友達同士で、「あの人、○○ちゃんのお父さんよ。」と言う時の感じです。)と言うことは、シモンはあの事件を機にイェスに従う者となり、子ども達も同じ信仰を持ったと考えられるのです。そう考えると不思議です。刑場見物に行って偶然に関わらされた迷惑な男イェスの十字架の死が実は自分の罪の為であった事を知った時から、あの十字架途上の不運な出会いの思い出は、今や素晴らしい出会いの思い出と変わったのです。彼はキリストと出会った新しい人生について語る時には、いつもこの不思議な出会いの事を人々に語ったことでしょう。

女学院中高6年間の毎朝の礼拝で開いてきた聖書はこの価値の変換、つまり自分の目や一般の社会通念ではマイナスであると考えられる事が、神と言う視点を通して全く違った意味を与えられ輝きだすという、ダイナミックな変換を教えてくれるのです。皆さんが社会に出て行った時、家族を離れて一人で生活する時、押し付けられたような思いがけない行き詰まりを感じる時があるでしょう。しかし、決して一人で煮詰まらないでください。その現実にはあなたのまだ気が付いていないもう一つの現実があり、私達には選択ができるのです。大藪順子さん(強調週間講師・カメラマン)が、受けた性被害の苦しみの中から、bitterよりもbetterに、pitifulよりもpowerfulに生きることを選択し、立ち直るとともに同じ苦しみを負う人の力となって生きておられる姿を思い出します。どうかどんな時にももう一つの現実を忘れずに「命に向かう選択」をし続けてください。

あの強調週間の最終日に代表の生徒による感想発表がありました。その中でD組のKさんがこんな話をしてくれました。『自分がどうなりたいのか、どう生きていたいのか考える事で、自分を救う選択ができるのだと思います。日々の小さな選択から、大きな決め事まで様々ありますが、私には選択する権利があるという事を胸に、またその選択は当然ながら責任を伴うという事を忘れずにすごしていきたいと思います。私は新入生に贈る聖書袋のラッピングや「人生とキリスト教」というテーマで楽しく歌った讃美歌のことを考えながら、自分が6年前にした選択のことを考えました。女学院に行くという選択をしていなかったら、今日のように充実した時間を過ごす事もなかったし、讃美歌を歌う事もなかったでしょう。そう思うとこの選択をした自分を誇らしく思うと同時に、自分が選択した事というのは、全て繋がっているんだと実感しました。』

私はこの言葉をきいてとても心を動かされました。皆さんが今日ここに女学院の第66回生として居るのも、様々な選択の結果です。そこには皆さん本人以外の選択も含まれているでしょう。これからは益々自分で決断をしなければならなくなる事も増えるでしょう。私は今日という日に、皆さんに約束してほしいのです。どの様な時にも、簡単な選択の時も、たとえ行き詰まって出口が見えないと思う時も、ひと時落ち着いて、「私は命へ向かう選択をします。」と自分の心の中で宣言してほしいのです。あなたの人生を目に見える現実だけで安く見積もらないでください。 その意味で恵みを与えられている人生は厳しさを伴っています。神様が与えてくださっている尊い価値(私はこんなにもかけがえのない者として愛され、命を与えられている事の発見)に達するまで私達の人生は終わりません。

どうか、力強く歩んでください。女学院を母校としていつでも帰ってきてください。お待ちしています。